世にも不思議な物語
ふと昔のことを思い出すことってありますよね。私も、もちろんあります。先日小さい頃の記憶がどこまで思い出せるかやってみたのですが、だんだん薄れてきているのですね。「それは幼稚園の頃だったか、それともその前だったか。頭をめぐる映像は、カラーであったり、なぜかシロクロであったり。
ふとこんなふうに思ってしまったのです。「それって本当にあったのか?」って。たとえば、子供の頃、友達の家で遊んでいてケーキをご馳走になった、本当か? 本当にそんなことあったのか? でもその友達に名前まで覚えている。いやいや名前を覚えているからと言って、その人物が実在したとは限らない。そこでその頃の写真を出してくる。懐かしい。白黒写真に私や幼なじみが写っている。ほら、写真に写っているんだから間違いない、昔、そういうことはあったんだ。
するとまた違う自分が横から口を挟む。「その写真のお前。本当にお前か? 誰が証明してくれるんだ。仮にお前だという人がいたとしても、それは事実か?」確かにそう言われれば、確かに何も証明できるものはありません。
そう考えてしまうと、つい最近のことでも事実かどうかわからないのですよね。私が思い出そうとしても、日を遡れば遡るほど、記憶がぼんやりしてくるのです。昨日の夜はお肉とサラダ。納豆も食べた。じゃあ、一昨日は、えっとえーっと。ちょっと待ってね。あ、冷たい豚しゃぶ。ずいぶんいいもの食べてるなあ(笑)ではその前。もうやめてくれ。出てこないよ。これって物忘れが激しいんだよね。歳だね。いや、ちょっと待てよ。そんなこと初めっからなかったんじゃないか。
子供の頃学校で歴史を習っているときに、私の頭は遠い妄想の中に飛んでいっていた。北京原人も、織田信長も、佐藤栄作も、本当はいなかったんじゃないか。何にもないんだよ本当は。窓の外をぼーっと見てて、先生に叱られ、立たされた。みんな笑っていたけど、どうせみんな私が立たされたことなど、すぐに忘れてしまうに違いない。だってそんなこと、本当にあったことなのどうかわからないのだから。
私は今62歳。そかし私が62年前から確実に存在していたことなど、誰が証明してくれるのでしょうか。写真でしょうか。でも写真も果たしてその時のものなのでしょうか。62年前の私が生まれた時の写真があったとしましょう。そこに写っている赤ん坊は本当に私ですか? 親はもう死んでいません。親戚の人に聞いてみましょうか。それは親戚の人の記憶です。私の記憶同様あてにはなりません。ではなぜ記憶があてにならないのでしょう。
私は記憶は塗り替えられていくものと考えています。昔の記憶は自分にとって都合の良いものに少しずつ変えられていくんですね。「そうであればいいなあ」という願望がそうさせていきます。ひどい場合全然なかったようなことまで作り上げている場合が多いのです。「作られた記憶」あてにはなりません。そうです私の周りに起きるすべてのことは、私の「こころ」がすなわち「脳」が作り上げたことだからです。
これを読んでいるあなたも、私の脳が作り上げたあなたなのかもしれませんね。
それなら、もう少したくさん作り上げないといけません。
だってアクセス数が少な過ぎるから(笑)
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